トラライフのコラム 2005年4月1日
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阪神甲子園球場の誕生

トラライフです。
阪神電鉄が野球場を作ったのは、1910年のこと。早稲田大学の招きでシカゴ大学が来日し、試合をやる際に、大阪毎日新聞が関西でも試合をやってもらおうと企画しました。しかし阪神地方に丁度いいグラウンドが無かったのです。当時、兵庫県西宮市夙川(しゅくがわ)右岸の一帯に博物館や音楽堂、動物園などを備えた「香枦園(こうろえん)遊園地」がありましたが、大阪毎日新聞は阪神電鉄に持ちかけて、この遊園地の中に急造のグラウンドを作らせたのです。このグラウンドはわずか3年間で姿を消したそうです。
香枦園のグラウンドがなくなった後、阪神電鉄がグラウンドを作ったのが鳴尾浜競馬場内の広大な空地でした。ちょうど馬券の発売が禁止され経営不振だった競馬倶楽部から借り受ける契約を結び、野球場やテニスコートを備えた総合運動場を作ったのです。1917年から、今の全国高校野球選手権大会にあたる全国中等学校優勝野球大会がこの野球場で開催されています。
1921年に、しばしば氾濫を繰り返していた武庫川の改修計画が出て、その費用捻出のために枝川と申川の河川敷を一括払い下げする話となりました。その話が阪神電鉄に持ち込まれ、住宅経営を目的に買い取ることになりました。阪神電鉄は住宅地のほかにレクリエーション施設を作る計画を立て、1922年、とりあえず三角地帯に野球場を建設することに決めました。こうして、1924年8月1日、阪神甲子園球場は誕生したのです。
甲子園球場を最初に使用した大会は、1924年8月の第10回全国中等学校優勝野球大会だったそうです。朝日新聞社が主催した夏の大会からやや遅れ、1924年春の選抜大会が毎日新聞名古屋支局の主催で開始され、第2回大会から甲子園球場で開催されるようになりました。
1948年、プロ野球球団の本拠地を決めることとなり、阪神の本拠地が甲子園と決まりましたが、現実に球場を持たない南海が、暫定的に甲子園を本拠球場としました。その後大阪球場が完成し、2リーグ分立の年に南海の本拠球場は大阪球場になりました。
さて開幕試合ですが、前年度順位の1位と4位、2位と5位、3位と6位が対戦するという形から、2000年のシーズンより組み合わせを固定せず、前年度順位の1位から3位の球団が主催する、という形になりました。さらに2002年にはサッカーのワールドカップ対抗策がとられたために、前年度順位にかかわらず開催地とカードが組まれた為、現在は「開幕試合は前々年度順位により、1位、2位、3位球団が主催する」ということになっています。
2003年度優勝チームの阪神タイガースは2005年の開幕試合を主催する権利があるのですが、春の選抜高校野球大会と日程が重なっているため、残念ながら甲子園での開幕試合は不可能です。 阪神タイガースよりずっと前から甲子園で行われてきた高校野球ですから、こればっかりは仕方のないこととあきらめるしかありません。
甲子園球場は、いつまでも野球少年たちの憧れの聖地であり続けて欲しいものです。そしてそんな素晴らしい球場を本拠地として戦える阪神タイガースの選手たちは本当に幸せだと思います。